御影屋

高須光聖がキク「高須光聖×かわら長介」 第4話

関西で叩き上げの大先輩。やすし・きよしや、いとし・こいしの漫才も手がけられた経験のあるかわらさん。たくさんの厳しい現場を経験してこられた先輩は、表現に対して、笑いに対して、どこまでも真摯でした。若手作家が次々と台頭してくる現場で、歳を重ねた自分にできるトレーニングとは? そしてこっそりと松本人志さんに宛てたという、ちょっと熱い手紙の内容とは……?

インタビュー

第3話

2001.04

「夜クネ」「突ガバ」俺の名前

「夜クネ」「突ガバ」俺の名前

高須

そんな知らず知らずの出会いもありながら、
長さんはどんどんテレビの世界で活躍してて……。
一番最初の当たり番組って何だったでしょう?
やっぱり『夜はクネクネ』ですか?

かわら

そうなるかなぁ。

高須

俺は初めて見た時、ビックリしましたもん。
こんなに特殊なことも何もなく、トークと音楽だけで
番組って成立するのかぁ、おもしろくなれるのかぁって。

かわら

形式が画期的やったからねー。

高須

あれはどうやって生まれたんですか。
やっぱりお金がない、スタジオも借りられない、みたいな
必然の中から、ていうパターンですか?

かわら

「角さん(MBSアナウンサー)と伸郎さん(あのねのねの原田伸郎)」
という出演者が決まってて、じゃあこの二人なんだから、
トークのおもしろさは間違いないやろー、と。それやったら
もう歩かせてしまうかあ、みたいな……。

高須

そしてタイトルも良かったんですよ。『夜はクネクネ』て、
響きといい、新聞に載った時の惹きつけ具合といい、すごくよかった。

かわら

あのタイトル、僕やねん。

高須

おおっ。
長さん、今日はちょっと、かっこいいポイントが
バンバン見えてきてますやん(笑)。

かわら

そう?(笑)

高須

いや、でも、あのストレートでありながら、
内容を見事に言い得てるタイトルはホントに見事でした。

かわら

僕もあの番組でもって、テレビ作りのハウツーを覚えた気がするなぁ。
そして何より、人間って言うのがおもしろい、と思えた。
絶対に出会う人達の全てが「なにか」を持ってる、と思えたし、
信じられたし、その人間でもって何かしら番組が作れるんだ、と思えたなぁ。

高須

大阪だからこそ、てのもありましたよね。
そして、ちょっとタイミングずれて『突撃!! ガバチョ』が来るわけですよ。
あれもホントにすごかったですもんね。

かわら

でも、俺はあの番組では、そんなテロップとかに名前載ったり
しなかったなぁ。

高須

でも、俺は笑瓶ショータイムのコーナーとか、
すっごい好きでしたよ。
なんやったら鶴瓶さんのコーナーより、そっちにはまってましたよ。

かわら

あ、そう? 嬉しいなぁ、あのコーナー俺がやらしてもらっててん。
でも、その当時のことを思えば、今のテレビは簡単にテロップに名前が
載りすぎやなぁ、とは思うけどね。

高須

あー、それはありますね。

かわら

メインの作家でなくても、ブレーンレベルで名前が載ったりするやん?
あの当時では絶対考えられへんかったことやもん。
一回、突ガバでメインの作家さんだった寺崎要さんが病気で
どうしても台本を書かれへん、て時があって、その時に代理で
僕が台本を任されてん。
で、ひょっとしたらと思ったのよ。
「今回は、今回だけは構成って事で名前が載ってもおかしくないぞ」と
思いながら必死で頑張ったけど、やっぱりいつも通りのテロップで
僕の名前は載らへんかった……ショックやった~。

高須

いや、そうであるべきなんですよ、本来は。僕もそうでしたもん。
僕は自分の名前が初めて全国区の番組のテロップに出たのって、
『クイズ仕事人』って番組やったんですね。
当時、既に『夢で逢えたら』『ガキ』とかやってて、テロップに
名前は載ってたんですけど、それはローカルでしたから、
例えば僕のおばあちゃんの住んでる
名古屋方面では見られへんかったわけです。
そしたら「仕事人」見たおばあちゃんがね、その僕の名前が
テロップで流れてる瞬間のブラウン管をわざわざ写真に収めて、
それを手紙に同封して「頑張ってますね、見ましたよ」って
メッセージをくれたわけですよ。
「遂に私の孫もこんなところで名前が載るようになって……」ていう
ものすごい感動がそこには詰まってるわけじゃないですか。
やっぱり、テロップに名前が載るって言うのは、それぐらい
すごいことなんだと思うんですよね。

かわら

載らないからこそ、載るまで頑張るぞ!! とも思えたりするしね。

高須

そうなんです。そこが向上心じゃないですか。
今はそこが甘くなってて、なんちゅうか、うちのおばあちゃんの
感動みたいな事が安っぽくなってるっていうか、
そんな気がしますよね。

かわら

……まぁ、そんな高須のおばあちゃんもね…今や……ううっ。

高須

や、あの、生きてまっせ?(笑)

かわら

あらっ!?(笑)

高須

勝手に殺さんといてもらえます?(笑)

かわら

せっかく感動的に感動的にしようかなぁ、と思ったのにー。

第4話へつづく

放送作家

かわら長介 さん

1949年 岐阜県益田郡(現下呂市)に生まれる。
1956~1965年 悪癖に溺れる少年期。
1958年 初恋す。
1966~1968年 基本、恋狂い。
1968年 暗黒のサラリーマン時代。
1971年 某国立大学入学/社会を問わんとす。
1972年 杉浦千鶴子を知る。
1976年 結婚/漫才作家にならんと大阪へ。
1978年 島田紳助を知る。
1981年 月収100万円を超える。
1983年 吉永薫を知る。
1980年代後半 漫才と漫才作家に懐疑を抱く。
1987年 離婚~以後独身/高須光聖を知る/死刑3部作①『君は我が運命(さだめ)』やり直し公演。
1989年 死刑3部作②『殺さば死ぬる』赤字公演。
1990年 築本早栄美を知る。
1991年 かたつむりの会主催死刑反対イベント『寒中死刑大会』構成・演出。
1992年 死刑3部作傍流芝居『京阪神犯罪伝説』100万円赤字公演。
1993年 武井裕子を知る。
1999年 戦争芝居①『哀楽喜怒~私は子供が好き』200万円赤字公演。
2002年 戦争芝居②『祭りの極』500万円赤字上演
2004年 刺青/放送作家塾「魁塾」開始。
2008年 私刑芝居『牛馬頭のゲーム』大阪、東京700万円赤字公演。
2009年 主宰コントライブ『コント衛門第一回』開催。現在まで8回の公演にて中断中。
2014年 「魁塾」20期にて目出度く終了。
2015年 『週刊金曜日』に「かわら長介のコント工場の有機物」月一連載スタート。
2016年 (1月)銀座博品館のコントライブ『七転び八時起きの人々』にて作品上演。

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