御影屋

高須光聖がキク「高須光聖×かわら長介」 第8話

関西で叩き上げの大先輩。やすし・きよしや、いとし・こいしの漫才も手がけられた経験のあるかわらさん。たくさんの厳しい現場を経験してこられた先輩は、表現に対して、笑いに対して、どこまでも真摯でした。若手作家が次々と台頭してくる現場で、歳を重ねた自分にできるトレーニングとは? そしてこっそりと松本人志さんに宛てたという、ちょっと熱い手紙の内容とは……?

インタビュー

第7話

2001.04

高須光聖がキク「高須光聖×かわら長介」

これからをどう生きる?

高須

これから長さん、どうしていきますか?
テレビは絶対あるとして、舞台、小説とか…。

かわら

本当はねー、そっち(舞台や小説)で食っていけたら、
それが一番いいんやけど。
ほら、テレビは結局「誰かのために創るモノ」やんか。
出演者という人達がいる限り、そこへ最大限に合わせていく、てことが
必要になってくるし、それは作家側がリードしていくって言ったって限界がある。
もちろん、出版業界の方がどれだけ自由かって言われたら
そんなに甘くはないと思うよ。
ただ、テレビと違って自分のために表現ができるというか、
絶対満足度が違ってくると思うねんな。
……正直、もう俺は26年も何してるんやろ~っ、ていうのもあるしねぇ(笑)。

高須

いや、俺は長さんにはやっていって欲しいですよ、テレビ。
やっぱり、長さんの企画って『ダウンタウンの…!?』の頃は特に、
刺激受けっぱなしでしたもん。俺と長さんの企画で
ばんばん番組回していってた部分もあったじゃないですか。

かわら

そんな時期もあったねぇ。

高須

あったねぇ、じゃないですよ。
若いですもん、思考とかセンスとか、やっぱり今でも圧倒的に。
全然衰えてないですって。

かわら

いやいや、そうは言うても、ねぇ(笑)。

高須

いないんですから、おもしろい企画考えられる人間。
ホントに少ないですって。

第8話へつづく

放送作家

かわら長介 さん

1949年 岐阜県益田郡(現下呂市)に生まれる。
1956~1965年 悪癖に溺れる少年期。
1958年 初恋す。
1966~1968年 基本、恋狂い。
1968年 暗黒のサラリーマン時代。
1971年 某国立大学入学/社会を問わんとす。
1972年 杉浦千鶴子を知る。
1976年 結婚/漫才作家にならんと大阪へ。
1978年 島田紳助を知る。
1981年 月収100万円を超える。
1983年 吉永薫を知る。
1980年代後半 漫才と漫才作家に懐疑を抱く。
1987年 離婚~以後独身/高須光聖を知る/死刑3部作①『君は我が運命(さだめ)』やり直し公演。
1989年 死刑3部作②『殺さば死ぬる』赤字公演。
1990年 築本早栄美を知る。
1991年 かたつむりの会主催死刑反対イベント『寒中死刑大会』構成・演出。
1992年 死刑3部作傍流芝居『京阪神犯罪伝説』100万円赤字公演。
1993年 武井裕子を知る。
1999年 戦争芝居①『哀楽喜怒~私は子供が好き』200万円赤字公演。
2002年 戦争芝居②『祭りの極』500万円赤字上演
2004年 刺青/放送作家塾「魁塾」開始。
2008年 私刑芝居『牛馬頭のゲーム』大阪、東京700万円赤字公演。
2009年 主宰コントライブ『コント衛門第一回』開催。現在まで8回の公演にて中断中。
2014年 「魁塾」20期にて目出度く終了。
2015年 『週刊金曜日』に「かわら長介のコント工場の有機物」月一連載スタート。
2016年 (1月)銀座博品館のコントライブ『七転び八時起きの人々』にて作品上演。

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