御影屋

高須光聖がキク「高須光聖×かわら長介」 第2話

関西で叩き上げの大先輩。やすし・きよしや、いとし・こいしの漫才も手がけられた経験のあるかわらさん。たくさんの厳しい現場を経験してこられた先輩は、表現に対して、笑いに対して、どこまでも真摯でした。若手作家が次々と台頭してくる現場で、歳を重ねた自分にできるトレーニングとは? そしてこっそりと松本人志さんに宛てたという、ちょっと熱い手紙の内容とは……?

インタビュー

第1話

2001.04

人生半分、作家人生。

ちょうどお昼御飯どき。
バイキングをいただきながらの今回の対談となった。

高須

ねえ、長さん。バイキングって「うっひょーっ」てなりません?

かわら

ま、分からんではないけど(笑)。

高須

僕ねぇ、絶対食べ過ぎるんですよー、もう絶対に。

外はまったり曇り空。
あっちこっち、いろんなものをお皿に取りながら、
さくさくと食事を済ませ、
コーヒーを飲みながらテープを回しはじめる、
ゆったりと時間が過去へさかのぼっていく。

人生半分、作家人生。

高須

長さんって、作家やりはじめたの何歳の時ですか?

かわら

26歳。

高須

それって今から何年前ですか?

かわら

ちょうど26年前やねん。

高須

うわっ!! 人生の半分、構成作家ですか!?

かわら

まずいよなぁ~(笑)。

高須

そんなことないですよ、すごいことですよ。
最初はどんな仕事してたんですか?

かわら

漫才。漫才の台本やね。最初の4年間ぐらいは
ずっと漫才一本やったかな。

高須

元々、どうして作家になろうと思ったんですか?

かわら

こんな仕事があるなんて、まず知らんかったよね。
テレビとかはそりゃそれなりに見てたけど、番組終わりに出る
テロップなんて見てもなかったし。
大学の落語研究会、いわゆる「落研」で漫才はずっと書いてたから
それで食っていけたらいいなぁ、とは思ってた。

高須

なるほど。

かわら

当時、俺は他に軽音楽のサークルもやってたんよ。
で、その軽音の流れでジャズ喫茶で演奏したりとかしててん。

高須

ハイカラさんですねぇ~(笑)。

かわら

そしたら、そこの喫茶店のマスターが、当時吉本にあった
『ポケットミュージカル』っていうのに出演してた人やったのよ。
それで、その人のラインから人生師匠を紹介してもらってね。

高須

ええっ、まじですか!?
あの「責任者よんでこ~い」の人生師匠ですか、
すごいじゃないですか……。

かわら

それで、楽屋にずっと詰めながら漫才の台本を書くっていう
ところへ落ち着いたのよ。

高須

じゃ、いろんな人の漫才台本書きながら名前を覚えてもらって。

かわら

そうそう。当時はそれしかなかったからね。
楽屋にずっと通ってたら、他の演者さんにも会えて、名前憶えてもらって
お声がかかるって言うか「こっちも書いてくれへんかー?」みたいなんが
広がっていったりしてね。
それこそ「台本、請け負います。」って書いた旗立てて歩いてるような感じやわ。
とにかくいろんなところに書いたなー。
吉本もあれば、松竹の芸人さんもあったし……いとしこいしさんとか、
やすきよさんに書くようになった時には、さすがに「やったぞ!!」とは思ったよね。

高須

それはすごいことですよ!
やすし・きよしの漫才を書いてたというのは知りませんでした。

かわら

いや、でも今でも漫才台本だけを専門にやってる作家さんが
何人かいてはって、その人達にしてみたら当たり前のことやからさ。

高須

いやいや、そこを書いて、更にテレビへ広がってきてるって言うのは
長さんだけ。それはすごいですって。
それがあった上でテレビやってるっていうのは、すごい履歴ですよ。

第2話へつづく

放送作家

かわら長介 さん

1949年 岐阜県益田郡(現下呂市)に生まれる。
1956~1965年 悪癖に溺れる少年期。
1958年 初恋す。
1966~1968年 基本、恋狂い。
1968年 暗黒のサラリーマン時代。
1971年 某国立大学入学/社会を問わんとす。
1972年 杉浦千鶴子を知る。
1976年 結婚/漫才作家にならんと大阪へ。
1978年 島田紳助を知る。
1981年 月収100万円を超える。
1983年 吉永薫を知る。
1980年代後半 漫才と漫才作家に懐疑を抱く。
1987年 離婚~以後独身/高須光聖を知る/死刑3部作①『君は我が運命(さだめ)』やり直し公演。
1989年 死刑3部作②『殺さば死ぬる』赤字公演。
1990年 築本早栄美を知る。
1991年 かたつむりの会主催死刑反対イベント『寒中死刑大会』構成・演出。
1992年 死刑3部作傍流芝居『京阪神犯罪伝説』100万円赤字公演。
1993年 武井裕子を知る。
1999年 戦争芝居①『哀楽喜怒~私は子供が好き』200万円赤字公演。
2002年 戦争芝居②『祭りの極』500万円赤字上演
2004年 刺青/放送作家塾「魁塾」開始。
2008年 私刑芝居『牛馬頭のゲーム』大阪、東京700万円赤字公演。
2009年 主宰コントライブ『コント衛門第一回』開催。現在まで8回の公演にて中断中。
2014年 「魁塾」20期にて目出度く終了。
2015年 『週刊金曜日』に「かわら長介のコント工場の有機物」月一連載スタート。
2016年 (1月)銀座博品館のコントライブ『七転び八時起きの人々』にて作品上演。

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