前半はチンコがプラプラする話が延々と続くのですが、後半になるとプラプラするチンコのことを忘れてしまうほどに、バラエティ&芸人について熱く、正直に語り合ったのが樋口さん回でした。数字ばかりを追いかけるスタイルに物申し、放送作家の華やかさばかりが取り上げられがちだった当時に、ただ熱く熱く、真面目に、おもしろいものを世に残そうと奮闘する……はたらくおっさんのカッコよさが全開です!
取材・文/サガコ
インタビュー
第2話
2004.07作家になったきっかけ
高須
さて、まじめな話もちゃんとしましょう。
樋口君は放送作家になったのって、何歳のとき?
樋口
88年ですから…24歳ですね。
高須
それまでは、特に就職せず?
樋口
今で言うところのフリーターやってました。
広告のバイトしてたんですよ。
それが、この業界に入るきっかけにもなったんですけど。
高須
どんなことしてたの?
樋口
求人情報誌を見て、他社がどんな雑誌に求人広告を載せてるか?
というのを見る仕事だったんですね。
「あー、こんな記事が出てるなぁ」ってチェックしていくんですけど、
その中にある日「古舘プロジェクト」の広告が載ってたんですよ。
「放送作家募集」みたいなのが。で、おもしろそうだなぁと思って、
びりっと破ってポケット入れて持って帰ったんです。
高須
へぇ~、そんな広告とかでも募集があったんだ。
樋口
だけど、放送作家って言われても、
どんな職業かまったく見当つかないじゃないですか。
例によって履歴書書いて、簡単な作文かなにかを書いて、
面接に行ったんですね。
高須
その頃、古舘プロジェクトっていうと、どんな作家さんがいたの?
樋口
えーっと、伊藤さんとか、
(伊藤滋之氏~『筋肉番付』『スポーツマンN O1決定戦』など)
山本さんとか
(山本宏章氏~『おしゃれカンケイ』『ビバリー昼ズ』など)
腰山さんとか…。
(故・腰山一生氏~古舘プロジェクト創設メンバー)
高須
おー、錚々たるメンバー。で、面接どうだったの?
樋口
僕、補欠で受かったんですよ。
高須
補欠?
樋口
当時、古舘プロジェクト自体が番組を一本持っていて、
それのリサーチャー募集だったんですよ。
その番組自体は1クールで終わっちゃったんですけど、
ひとまずはその番組のリサーチとして採用されたんです。
高須
その時は何人くらいのリサーチャーを取ってたの?
樋口
6、7人ぐらいいましたよ。
高須
おー、結構な人数だなぁ。
それで、その他の同期の人たちは?
知らない間にいなくなっちゃったってパターン?
樋口
同期で今もやってるのは、冨永くんっていうのが
『報道ステーション』をやってたりしますね。
僕ら以外はいつの間にか……でしたね。
高須
やっぱりなぁ、そういうもんだよね。
待つのも才能。
高須
で、担当番組が1クールで終わっちゃって、その後は?
樋口
その後は、古舘さんについてずっとF-1やってたんです。
89年からセナが事故で死ぬまでぐらいの間ですから、
ちょうどブームだった頃ですね。
で、ブームなもんだからF-1番組がかなりたくさんあって、
それだけでメシ食えちゃうくらいだったんですよ。
高須
なるほどなるほど。
樋口
で、ずーっとF-1番組の構成やりながら、
横目でバラエティをやってる作家を見ては、
「僕もバラエティやりたいなぁ、やりたいなぁ」って
思って過ごしてましたね。
高須
その、バラエティをやりたいけどやれないっていうのは、
どれくらいの間続いたの?
樋口
結構長かったんじゃないかなぁ……5、6年続いて、
30歳手前くらいまで続きました。
高須
うわー、それはツライなぁ~。
周りがばんばんバラエティつくってるのに、自分はそこに入っていけない。
そーたにくんがいて、都築くんがいて、でしょ?
樋口
ですねぇ、いろんな作家がおもしろい番組作ってましたからね。
でも、ある時、古舘さんに言われたんですよ。
「待つのも才能だぞ」って。
言われて「そうか」ってすぐ納得できるわけじゃなかったけど、
言われたから我慢できたというか。
「待つのも才能」って自分に言い聞かせてしばらく過ごしてました。
高須
なるほどなぁ。
第3話へつづく
放送作家
樋口卓治 さん
放送作家 1964年札幌出身
CX「笑っていいとも!」「ヨルタモリ」
TBS「金スマ」「ぴったんこカンカン」
テレ朝「Qさま!!」「お願いランキング」
著書「ボクの妻と結婚してください。」「失敗屋ファーザー」「天国マイレージ」(いずれも講談社)