御影屋

高須光聖がキク「高須光聖×田中直人」 第3話

『電波少年』『ザ!鉄腕!DASH!!』など、ヒット番組に次々携わる田中さんは、高須さんいわく「理論派の放送作家」。田舎で育った経験から生まれた「DASH村」、ヒットを確信した瞬間は○がおりた時!? 幼い頃に見てきた原風景から導き出されるバラエティ企画のリアルな落としどころについての話など、ヒットの秘密がたくさんわかる話が目白押しの回です。

インタビュー

第2話

2007.09

「きっかけは『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』」

高須

田中くんって、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の「放送作家予備校」だよね。

田中

そうなんですけど、番組を見て応募したわけじゃないんですよ。
そーたにさんとか池田一之さんが第一期になるんですけど、僕は第二期なんです。
同じ頃に伊藤(※テリー伊藤)さんが『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』や
『宝島』で一斉に作家募集をかけていて、
一期の人たちはだいたい『宝島』を見て、応募してるんですよ。

高須

そうやったんや。

田中

で、『元テレ』の企画に乗っけてやったのが「放送作家予備校」なんです。
僕はね、人づてで話を聞いて入ったんです。

高須

へ~!ってことは、『元テレ』に出てた頃はもう作家始めてたってこと?

田中

いや、まったく(笑)。
僕も含め、ほとんどが学生だったんで、ディレクターとプロデューサーの違いも
分からないような状態だったんです。
で、「『IVS』というところに来てくれ」って言われて、
テレビ局だと思って「スタジオはどこですか?」って聞いたくらいですから(笑)。
そこで初めて制作会社だって知ったんですよ。

高須

そりゃ、分からんよね(笑)。テレビにはどこから興味持ったの?

田中

それが実は、大学2年までテレビを持ってなかったんですよ。
バイトばっかりしていて、テレビは見てなかったんです。
大学1年の終わり頃から3年の始めくらいまで劇団に入ってお芝居をやっていて、
その時にたまたま勧められて3年の夏からこの仕事を。

高須

芝居って、自分で出るっていうこと?

田中

出てました。書くとか考えるとかは、まったくやったことなかったんですよ。

高須

へえ~!出身はどこなん?

田中

青森です。津軽地方の真っ只中。

高須

あ、そうやそうや。で、大学で出てきて……。

田中

いや、ちょびっと仙台の大学に行ったんですけど、それから勉強し直して上京して。

高須

それは芝居やるために出て来たん?

田中

いやいや。それはまあ後付けで、まずは東京に行こうと。
華やかな生活に憧れてたんでしょうね(笑)。

高須

大学のときにテレビがなくても、やっぱり面白いことは好きやったわけやろ?
子供の頃って、どんな子やったん?

田中

田舎だったんですけど、情報収集には貪欲でしたね。メインはラジオで。
テレビもあるんだけど、チャンネル数が少ないから、雑誌なんかを読んでも
僕の地元では放送してない番組もあるじゃないですか。
その点、ラジオだと音楽にしても、全国レベルで情報収集ができるから。
そこで、ラジオの『欽ドン』……テレビの方じゃないですよ?
テレビの『欽ちゃんのドンといってみよう!』は僕の地元ではやってなかったんで、
『欽ドン』と言えばラジオだと思ってましたから(笑)。
で、そのラジオの『欽ドン』に投稿して、中学2年生のときに
欽ドン賞をもらったんです。
「あ、俺はこれで全国レベルに達したぞ!」と思いました(笑)。
でも、そんなもんなんですよ。

高須

そりゃそうだ(笑)。
学校でもまわりから面白い奴やな~って言われてたやろ?

田中

そうですね(笑)。なんでもできないとダメだと思ってたんですよ。
運動とか勉強だけだとダメで、キャラクター的なものもないとダメだと。
で、全部を勝ち取ろうっていうのは自然と身についてましたね。

高須

田中くんってキャラとしては、不思議やんか。
俺、いまだに田中くんが何考えてんのか分からへんときあるもん。
真面目な顔してると思ってたら、ものすごいバカなこと言うたりとか(笑)。

田中

僕、そんなに複雑じゃないですよ(笑)。

高須

ほら、そうやって「複雑じゃない」っていうのもまた複雑やんか(笑)。
ほんま分からへんねん、掴みどころがないねんな~。

第3話へつづく

放送作家

田中直人 さん

1964(昭和39)青森県木造町(現・つがる市)生まれ。
青山学院大学3年在学中より伊藤輝夫(現・テリー伊藤)の下で放送作家に。
初めての番組『コムサデとんねるず』(フジ)
好きなもの:猫・温泉・演劇・ラグビー・アーモンド・辛くないカレー

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