御影屋

高須光聖がキク「高須光聖×佐々木勝俊」 第2話

「御影湯」史上、いちばん騒がしかった対談でした。佐々木さんはものすごくパワフルに、遊びと真剣さが足りない当時のテレビ業界を「こんなんじゃつまんないよ!」と言い切る方でした。放送作家でありながら、そこだけに留まらない。惜しまない。ブレーキがない。景山民夫さんとのとんでもない思い出話や、洋服ブランド時代の過去はほとんど伝説級。くだらなさに向かってアクセルを全開にできるオトナの存在感が満ちた内容です。今の若い人達にどんな印象を残すのでしょうか?

インタビュー

第1話

2002.04

ほんまにいろいろやってきた

高須

今日はよろしくお願いします!
僕はずっと、勝俊さんに話を聴きたかったんですよ。
だって、こんな変な人、他に知りませんもん。

佐々木

そうかな、普通だよ!(笑)

高須

勝俊さんてお幾つでしたっけ?

佐々木

49、永ちゃんのふたつ下。

高須

いやいや、永ちゃんは関係ないでしょう。

佐々木

あっそう。

高須

ほんまに変なおっさんやろ?

-----

そうですね(苦笑)。

佐々木

いきなりかい(笑)。

高須

いやいや、つい勝俊さんの頭を見てると、口も滑っちゃって。

佐々木

ごめんね、大人げない上に、毛もない男で。

高須

ありがとうございます、小ネタの数々。

佐々木

いえいえ。で?

高須

実は『HEY!HEY!HEY!』とか会議で毎週会ってるのに
じっくり喋った事なんてないでしょう?

佐々木

そうだね。

高須

僕、勝俊さんがどうやって放送作家になったのかも
全く知らないんで、小ボケを挟みつつ、そのへんをお聞きできたらと……。

佐々木

どうして作家になったか?
う~ん、じゃ、大公開の初公開だね、この機会にね。
いやー、話せば長いんだけど、意外と短いよ?(笑)

高須

早速の小ボケ(笑)。

佐々木

僕、1953年生まれ巳年のB型、性格は意外と几帳面なんだけどさ。

高須

几帳面かな(笑)。

佐々木

その頃ってちょうどテレビがモノクロからカラーへと変わったぐらい。
1964年がオリンピックで、これを機会にテレビを大型のカラーに
買い換えようっていう、まさしく高度経済成長の時代。
その頃は日曜日の6時から『てなもんや三度笠』を見て、
6時半からは『シャボン玉ホリデー』を見るっていうのが
定番だったのよ。
僕は番組に出演してるクレージーキャッツとかも好きだったんだけど、
それよりも
「こういうおもしろい番組を裏でつくってる人達って、
どういう人達なんだろう?」っていうのに興味があった。
そしたら当時、作家の青島幸男さんの一番弟子で
親友だった河野洋って方がいて、その河野さんの
弟がたまたま僕の同級生だったの。

高須

またいきなり、変な人が近くにいたもんですねぇ。

佐々木

なに言ってんの~!
高須君の浜ちゃんや松ちゃんと同じようなもんでしょ(笑)。
河野さんの弟のそいつは川崎良っていうんだけど……。

高須

えっ! 良さんなんですか? 僕知ってますよ!

佐々木

そう、良くんとは僕、クラスメートだったんだから!
アイツのあだ名【インドきゅうり】って言うんだから!

高須

いや、そんなん聞いてませんって(笑)。
で、その【インドきゅうり】の良さんと?

佐々木

よく一緒に遊んでたんだけど、その遊び方ってのが
ちょっとあか抜けてたんだな。
あいつの家は一人っ子だったから、おもちゃとかも結構買い与えられてて
品揃えが充実してたのよ。ちょうど『コンバット』が流行ってたんだけど、
他の誰も持ってないようなライフル銃のモデルガンとかがあったりしてね。
で、それを使って二人で何をしてたかっていうと
「テレビつくるごっこ」。

高須

ふんふん。

佐々木

一人がディレクター兼カメラマンで、もう一人がライフルを持って
演者の役。今は戦争の最前線で、次は基地に隠れたところで…とかって、
要するに、生放送でシーンを繋いでいくっていうようなことを
遊びでやってたんだよ。
もちろん、当時ビデオなんて無いから、実際に記録をしてるわけじゃ
ないんだけどね。

高須

確かにそれはあか抜けてますねぇ。

佐々木

でしょっ?で、それをずっと繰り返してたらさ、自分はどうやら演じるよりも
作る方がおもしろいんだなぁ~って感じるようになった。
それがテレビの裏方への、最初の興味だったと思う。
更にそいつの家では、なんだかよく分からないんだけど、
お母さんが家でも小さな仕事をちょいちょいやってたんだよね。
それがまた芸能界と繋がってて、
ちょうど『シャボン玉』がブレイク最盛期だったんだけど、
そのクレージーキャッツのソノシートを
パッケージに入れてたんだよ。

高須

それもまた変な話ですねえ。

佐々木

多分、お兄さんの川崎さんの繋がりでやってたんだろうけどね。
僕もよくそれを手伝ったりしてた。で、やってるとだんだん
「今ヒットしてるスーダラ節も、ちゃんと作った人がいるんだな」って
分かるようになったんだよね。
で、この曲のおもしろい歌詞を書いた人は、実は『シャボン玉』で
コントを書いたりもしてるんだ、ってこととかも分かるように
なったりして……。
しかも、当時の青島さんは作家でありながら「青島だ~!!」って
叫んでテレビに出てたでしょ?
僕は思ったの。
「……そうか。おもしろいことを書きゃテレビに出れるんだ!」って。

高須

うんうん、なるほどね。
テレビの裏側の仕組みを少し、もう理解してたんですね。

佐々木

それがテレビへの興味と情報の第一歩だったと思うなぁ。

高須

小学生の時でしょ、それって凄いですねぇ。
僕がテレビの仕組み知ったの高校3年の時でしたもん。
それから? どうされたんですか?

佐々木

次は中学生の時。
朝の7:20からやってる『ヤング720(セブンツーオー)』っていう番組が
好きで毎日見てたんだよ。月曜日から木曜日までの帯番組なんだけど、
月・水と火・木で、二つの作家チームがいるんだってことが
毎日見てたら分かってきた。
その中でも特に自分が好きな作家が景山民夫さんだった。

高須

なるほど……。

佐々木

これが2回目の、テレビの裏側との出逢いってことになるかな。
この人達が青島さんの次の時代の人達なんだな~って、
おぼろげに感じてたんだよね。

高須

それもすごい感性ですねぇ。

佐々木

だけど、その頃の景山さんなんてこう言うと変だけど、
ただのバカな二十歳の男だよ?(笑)
ひょろっとして、観客の一部みたいにしてテレビに映ったと思ったら、
番組の間中、ずーっと歯ぁ磨いてんだよ?
背が高くて、ただただずーっと歯を磨いてる男。
そこへ目を付けた、というか惹かれたんだよね。
この人はコントをやってるんじゃなくて、
生き様がそのままコントなんだなって。
で、それがどんどん憧れみたいなものに繋がっていってね。
「自分もテレビに出たいなぁ」って思うようになった。

高須

その時は作家で裏方っていうんじゃなくて、もう
画面に出たかったんですか?

佐々木

うん、出たかった。
芸能界がちょろちょろっと、身の回りにたまたま転がってるような
土地で育ってたからね、裏にも興味あったけど、表舞台も憧れたなぁ。

高須

地元が目黒ですもんね。

佐々木

そうそう。小さい頃は目黒スタジオっていうのがあって、
近くを通りすがったらスタジオの脇の空き地で
沢田研二と布施明がキャッチボールしてるだとかしょっちゅうだった。

高須

うわぁ……それは尼崎ではありえへんなぁ。
すごいっすねぇ。
芸能界が近いって感じ。
だってすぐ手の届く所に有名人が、普通にいるんですもんね。

佐々木

田舎だったんだよ、目黒って。今でも田舎じゃない?
都会の中のローカルだったから、お忍びホテルなんかもあったりしてさ。
それで妙に芸能づいてたんだと思うけど。

高須

それはでも、生まれついてのラッキーですよね。
うらやましいなぁ。

佐々木

まぁ、でも興味があったからってすぐに
劇団に入ったりとかそういうこともせず、普通に大人になって……。
そしたら、たまたま偶然に民夫さんと知り合うことになった。

高須

運命的ですね。いくつぐらいの時ですか?

佐々木

二十歳ぐらいだったと思うなぁ。

高須

ここから感動的な出会いの物語が始まるわけですね。

佐々木

渋谷の西武でブルース・リーの追悼ファッションショーってのがあってね。

高須

は!? またおかしなイベントが……。

佐々木

それに知り合いが出てたんだけど、どうも前日になってモデルに
欠員が出たって言う。
「佐々木、急で悪いんだけど出てくれないか?」って話になった。
僕はもうブルース・リー大好きだったから
「やるやる!」って二つ返事で答えて、実際現場に行ってみたら、
嘘のブルース・リーの格好をして「アチャー、アチョー」って
甲高い声で言ってたのが、民夫さんだった。

高須

やっぱり変わってなかったんですね、歯を磨いてた頃から。

佐々木

うん、進化してた(笑)。
僕は「中学2年生の時からファンでしたっ」って挨拶したのよ。
そしたら民夫さんは「そうかー。じゃあ、色紙あげるね」って言って、
僕に何にも書いてない真っ白の色紙をくれたの。
「だって、色紙あげるねって言っただけじゃん」って、
ちょっと洒落たことを言うわけさ(笑)。

高須

洒落てますねー。
ていうか、ちょっとそれは良い意味でキチガイですね?(笑)

佐々木

そうそう、とても心優しいキチガイだったよね。

高須

だって、それを言いたいために、わざわざ色紙用意したわけでしょ。

佐々木

そう。

高須

変な人だったんですねぇ……。それからどうされたんですか?

佐々木

その出逢いはチャンスだ! と思って、僕も何か食らいつこうと思ったの。
その時、僕は洋服屋だったんだけど。

高須

洋服屋?

佐々木

うん、18歳の頃から洋服の仕事をしてたの。
商業高校卒業したからね。

高須

何でもやってきてますね~!(笑)

佐々木

まぁ、少年実業家なんて言われてたりしたんだよ?
で、そういう仕事をしていれば人付き合いが増えたりしていくでしょ。
その中で縁があって民夫さんに逢えた。
で、ショーが終わってからも一生懸命話しかけたね。
そしたら民夫さんが
「カッチン(勝俊さんのあだな)はさぁ、楽器って弾ける?」って訊かれたのよ。
僕はもう、どんなチャンスも逃したくないから「はい!」と即答よ。
そしたら「俺のやってるバンド、ベースに欠員があるんだよー」って
言われて「ベースかよ~っ」って心の中で思ったけど引き受けちゃった(笑)。
当時のベースって言ったら、ジャンケンで負けたヤツがなるような
ポジションだったからね、正直がっかりしたんだけど、
それでも食らいつきたかったから、そのままバンドに入ったの。

高須

景山民夫さんのバンドに?

佐々木

そう。

高須

ベースはさておき、すごいチャンスじゃないですかぁ。

佐々木

その頃って、民夫さんもまだテレビのレギュラーを5、6本持ってたなぁ。
『オールナイトニッポン』とか。
そうしたら、少ししてから民夫さん達が『おもしろマップ』っていう
番組をつくりだしたんだよ。

高須

それって『タモリ倶楽部』よりも前ですか?

佐々木

そう。『タモリ倶楽部』の前身が『おもしろマップ』だと思う。
その番組に、プロではないけど金の儲かってる洋服屋で、
民夫さんの知り合いってことでなーんか現場に入り込んでたんだよ。
打ち上げの費用を出してあげたりとかしてね。

高須

マジですかぁ?
話だけ聞いてると、めちゃくちゃうさん臭いですけど。

佐々木

ほんとほんと。

高須

洋服屋って、そんなにすごかったんですか?

佐々木

全国の200店舗ぐらいにTシャツ卸してたなぁ。

高須

すごいじゃないですか!?

佐々木

当時、月商が1200万ぐらいあったもん(笑)。

高須

なんでそんないい仕事を辞めて、放送作家!?

佐々木

威張ったってしょうがないけど、
その時代で年商が億単位だったからねー。
だけど、僕は洋服屋になりたくてなったわけじゃなくて、
洋服が好きなだっただけだったんだよ。
でも商売をやっていったら、いろんな汚いところが見えてくるでしょ?
正義感がちょっとあったから、そういうのを知っていくうちに
「俺は本当は何をやりたかったんだろう?」っていうのが
芽生えて来ちゃって……。

高須

はぁ~、なるほどー。

佐々木

性分だからねぇ、仕方ないや、うん(笑)。

第2話へつづく

放送作家

佐々木勝俊 さん

放送作家
タモリ倶楽部
天才・たけしの元気が出るテレビ!!
夕焼けニャンニャン
1or8
三宅裕司のいかすバンド天国
HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP
など手がけ
最近では「バレエデイズ」なるタブロイド紙を立ち上げてみたり、好奇心の赴くままに活動しております。

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