御影屋

高須光聖がキク「高須光聖×合田隆信」 第3話

先日、復活特番となった『学校へ行こう!』をはじめ、『ガチンコ!』など、アイドルが全力で取り組むバラエティを数々成功へと導いた合田隆信さん。彼は芸人バラエティを潰した戦犯だったのか?その背景にはTBSが抱えていたジレンマや、芸人に対するコンプレックスや憧れなどがたくさん渦巻いて……!?本音で語られる失敗談も含め、胸を熱くするお話がいっぱいです。
取材・文/サガコ

インタビュー

第2話

2002.01

学びの場『生生生生ダウンタウン』

高須

さて、12年前にTBS入って、その頃は、どんなんしよう思てたん?
フジみたいなバラエティしようと最初から思てたん?

合田

いや、バラエティ志望で入ったっていうか、
入った当初はあんまり詳しくわからないじゃないですか。
とりあえずバラエティに配属されて、まあその時に塩川さんと、
石川眞実(まこと)さんって人事部長なんですけど、
その二人の番組に入って2年間その関連のチームにずっといたんです。

高須

ADだったもんね。

合田

AD。もうずっとです。
で、3年目に初めて、全然別のチームに移って、
それが『生生生生ダウンタウン』だったんです。
僕はずっとお笑いみたいなのをやりたいやりたいって言ってて。
当時なかったじゃないですか、TBSって。

高須

なかったねえ、うん。

合田

ダウンタウンがうちに来るんや、ってもうそれだけで大騒ぎになってたんで。
そんでまあADで呼んでもらって。
そっからですね、僕の人生大きく変わったのは。
そこまではほんと下積み時代というか……まあ高須さんは
よくご存知と思いますけど。

高須

うんうん。

合田

まぁあの番組も、転機とは言え、苦しい結果の番組でしたけどね。

高須

まあなぁ……。
あれまたかわいそうなのは、みんなが
マッチしてなかったんよなぁ、一人一人。
会議になってなかったやんか。

合田

当時初心者ADの僕から見ても、何を話し合うてんのかなぁって(笑)。

高須

ディレクターが作家制になっていったやんか。
トータルでもう話が合えへんからって、
ディレクターごとに作家を数人、これが俺のチーム!って
集めちゃったのよね。
まず、永峰さんっていう人がチーフやったんかな。

合田

フジテレビに昔いてはった。

高須

そうそう、ひょうきんディレクターやった人で、
今『あるある大辞典』とか当ててはんねんけど、
吉本の大崎さんがその人を買ってたわけや。
で、TBSでは、赤木さんって人がいてはって、
その人がプロデューサーなってんけども、
その赤木さんっていう人が、永峰さんとまず基本的に合えへんかった。

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それは……厳しい。

高須

で、いきなり番組の大コンセプトが決まらない。
で、その時のチーフ作家が……えーっと。

合田

萩原さんですよ。

高須

萩原さんと、えーと、詩村さん。

合田

二人なんですよね、そこがまた。(苦笑)

高須

そう、また微妙なのよ。

合田

ダウンタウン派の作家さんと東京の作家さんとが、こう……。

高須

お互い気をつかいあって、話が進まない。

合田

当時ダウンタウンの勢いがすごいっていうのもあって、
いろんな制作体勢のこともあったんですよね、東京と大阪で。

高須

そうそう。でね、どっちも微妙なスタンス取るのよ。
まあ会議は、最初からそんなわけで、煮詰まりまくり。
で、その次にディレクター。えー、あの時永峰さんの下は、荒井さん。

合田

あと、小野寺廉(レン)さんがいて。

高須

レンさんがおって、荒井さん、泉屋さん。
で、まあ、これもいろんなタイプや、ディレクター陣。
タイプが全然違う、三人とも。

合田

バラバラでしたね。

高須

俺1回、前も言ったけど、荒井さんと大喧嘩したのよねえ、会議中に。

合田

あ、そうなんですか。

高須

合ちゃん覚えてないかもしれないけど、
俺と荒井さんはお互いちゃんと覚えてるんだよね。
あの番組の会議、なかなか決まらなかったでしょ。
生番組で、なんとなく手探り状態で、またこの番組どうなるんだ、
数字ももうひとつだなぁって言ってた時に、
荒井さんは荒井さんで、その場を盛り上げようと思って、
「まあまあ、そんなようなことで、ととんっと行って、
今日はもう終わりましょうよ」って、
荒井さんはシャレで言ったのよ。
シャレというか、煮詰まった会議を延々ずっとやっててもしょうがない、
もう夜中3時だし、みたいなことや。
でも、なんか俺はその時嫌だったのよ、そういうのが。
でまあ、作家としても駆け出しの頃やから、
なんとなくいろんなこと言いたくなる時で、生意気でね。
俺が荒井さんに「それはダメでしょ」って言っちゃったのよ。
なんか知らないけど。
普段、そんな正義感がある人間でもないのに。

合田

ふふふふふ。

高須

で、言っちゃって、荒井さん変な空気になって、
俺も「荒井さんとはできない、あの人やる気がないもん」って……。
今では、俺も荒井さんも和解したけどさ。

合田

そんなこともありましたねぇ。

高須

なぁ……。

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……な、なんか、青春って感じのお話ですねっ。

高須・合田

そんなええもんやなかったっちゅうねんっ!(笑)

合田

そんなわけで、いろいろうまくいかなかった『生×4』。
ラスト直前の回に、僕は初めて演出をやらしてもらったんです。
まあそのときは、高須さんと三木さんとでサポートをやってもらって。

高須

すごかったよねぇ。
Tシャツにいろんな人のがんばれメッセージ書いてもらって。
ひとり24時間テレビ状態。
もう、ガーッて書いてもらって、
頭にハチマキして「あぅあぅあーっ!」叫びながらやってたもん。

合田

(笑)。ああ、やってたなあ。

高須

気持ちでディレクターやってた、気持ちで。

合田

僕は当時、同期でいちばんディレクターになるのが遅かったんですよ。
全然ダメだった当時の僕に
「番組がどうせ終わるなら、1回録らせてもらえ」ってことで
上司の難波さんが署名を集めて、
「合田、お前をディレクターにしたいっていう人がこれだけいるんだ」
っていうことを赤木さんに見せて頼んでくれたんです。
それは難波さんなりの親心だったと思います。
すごくありがたかったですね。

高須

かわいがられんのよなぁ、ゴウちゃんって。
その荒井さんもそうやったし、赤木さんもそうやねんけど。
「合田合田合田」って、なんかなんとなくかわいがられんのよね。
で、それはねえ、本人わかってんねんなあ、これまた微妙に。

合田

そんなことはないですよ(笑)。

高須

実は浜田も合ちゃん買ってたからね。

合田

あ、うーん、買ってもらってたかどうかは分からないけど、
浜田さんにはものすごくよく怒られましたね。
いや、それをかわいがってもらってたっていうんですけど。
フロアディレクターやってたんで、毎週呼ばれて。
部の先輩みたいでした。
「合田、来い」と。(笑)
終わったら必ず、「合田ちょっと来い」って言われて。
まあその怒られる内容は、カンペの出し方が遅いとか(笑)、
そんな初歩的なことでしたけど。

高須

いや、でも、いまだにあいつどこの局行ってもやってるよ、それ、しつこく。
フロアDは必ず「ちょっと来い」。
終わってから「ちょっと来い」。

合田

フロアに厳しいんですよね。
や、僕、松本さんと浜田さんには…あ、松本さんには
別にそんなに声をかけてもらったりとかなかったんですけど。
まあ、でも後半の方で、いつも終わった後、
松本さんとかと打ち合わせしてたやないですか、
番組内での松本さんのネタについて。

高須

うんうん。

合田

後に『発明将軍』とかに受け継がれていくような、
ネタの部分あったじゃないですか。

高須

うん、あったあった。

合田

あれの打ち合わせとかしてるときは、
なるべく松本さんの前でも、ADでしたけど
一生懸命喋らなあかんなと思ってましたよね。
顔くらいは覚えてもらってたかもしれないですけど。
ダウンタウンのお二人は今でもすごく尊敬してますし、
助かったなーと思ってます。
環境がね、勉強になった。
ほんまにあの時やっぱ、周りの人がTBSはダメダメって言ってた
時代でしたから。

高須

うん、確かに。

合田

僕、取材で必ずこればっかり言うんですけど、
あの『生×4』時代は
TBSはバラエティが無理だ、無理だってものすごく言われて、
すごい屈辱だったんですよ。

高須

うーん。

合田

しかも、実際に『生×4』関わってるスタッフに言われたりしたんです。
いや、作家さんは直接そうは言ってた人はいないですけどね。
高須さんはもちろん、倉本さんとか三木さんもそんなことは言わなかったし。
まあでも、作家とかディレクターではない人に言われたりしたんですよ。
「TBSじゃねぇ~」みたいなことをちくちくと。
身内中の身内みたいな人が、それを言うのか、と思ってとてもショックで、
腹もたちました。

高須

それは忘れられないねえ。

合田

ええ、別に恨んでるということもないですけど、でもやっぱりすごく……。

高須

いや、そこはもう、パカッと開けてよ。

合田

うはははは。

高須

ゴウちゃん、開けていいよ。

合田

いや、でもやっぱり言われたら、それは腹立ちますよねえ。

高須

うん。

合田

まあでも当時言われてもしゃあないような状況……TBS全体もそうやったし、
僕ら局のスタッフもそうだったと思いますし。

高須

うん。

合田

フジテレビで長く居た方に
「合田、お前チーフADって言ってるけど、
お前がやってるのはフジでは3rdADの仕事だよ」って
言われたこともあった。
そういう意味じゃ、いろんなむかつくことを言われながら、
いろいろ外の状況とかは、その「むかつき」から仕入れてましたよね。
当時のTBSで、ずっとやってても、よその情報とかは
入ってこないわけじゃないですか。

高須

うんうん。

合田

だから、ダウンタウンは黒船みたいなもんだったんですわ。
『生×4』でダウンタウンが来ることによって、よその局の状況というのが、
その1年間で僕はものすごいわかってきて。

高須

うん。

合田

よその局の現場じゃどういう様子でやってるのか、とか。
視聴率だとか、雰囲気とかは、その頃から急に気にし始めました。
TBSが今あかん状態なんやなということを、意識するようにしたんです。
それを意識するのは苦しかったけど、でも、必要だと思ったから。
でも、まあ、ものすごく当時バカにされてたっていうのは、
今でも自分の原動力だなぁ。
いまだに4チャンネル、8チャンネル、討つべしっていう(笑)。
その思想のいちばん原点は『生生生生ダウンタウン』です、
間違いなく。
あのAD時代、みんなに虚仮にされてたっていうのが、
今の僕を作ったのかもしれません。

高須

そっかぁ……。

合田

だってあの番組、スタッフのほとんどがダウンタウンさんとも
仲良くなってなかった、みんな。それが全てを物語ってるんじゃないかな。
たぶん浜田さんとかも赤木さんと僕以外の名前はもう……。

高須

いやあ、覚えてないやろな。

合田

覚えてないと思うんです。そんな状況でやってたんですよ。
で、これはおかしいんじゃないかと。
それが後になってよく分かりました。
さんまさんとかとんねるずさんとかやるようになってから、いろいろと。

高須

改善されていった?

合田

いろいろ自分がやっていかな、とは思わせられましたよね。
どこ行ってもTBSは同じ状況になりそうになってたから。
とんねるずさんの番組をやる頃はそうでもなかったですけど。
さんまさんの番組に行った時にも似たような状況はちょっとあったし。

高須

うん。

合田

芸人さんとか、いわゆるバラエティ系のタレントさんと
やる体質とか、理解力がTBSには全くなかったんだと思います。

高須

会話ができてへん状況が多かったのよね。
大物タレント来たって言えば、ああもうそれだけでいいっていうような
甘えた状況が、確かにあったと思う。

合田

いや、甘えというよりは「無知」だったり、
「努力をしない」ってことだけだったんですよ。
あの体質は、既に甘えを通り越してましたもん。

高須

さあ、そんな辛い季節を経て、
成長したゴウちゃんの闘いが始まっていくわけやぁ!

合田

いやいやいやいや…(笑)。

第3話へつづく

ディレクター

合田隆信 さん

1967年石川県生まれ
1990年TBS入社
学校へ行こう、ガチンコ!、さんまのからくりTVなどの演出•プロデュースを経て
現在バラエティー制作二部長

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