まだ入社1年目の新人ADが出した企画がまさかの採用。いきなり初プロデューサー&初ディレクターを兼務しながら他の番組では底辺のAD業務の日々。記念すべき初番組の作家にと白羽の矢がたったのが、なにを隠そうこの私。まさかのオファーに戸惑いながらも、なんか面白そうだったので引き受けることに。その時の縁が巡り巡って、一緒に番組をしている。今最も芸人に信頼されているディレクターになった彼とテレビの熱い対談が始まる。
※この対談は2016年9月7日に収録したものです。
インタビュー
第3話
2017.12.25高須
まぁ、情報番組にいた24歳の藤井に作家として呼ばれる機会があってその後「こういう面白い奴がおって、こんだけバラエティ好きやったら情報番組から引き抜いた方がいい!」って、当時のゴーちゃん(合田隆信)と安田君(安田淳)に言って、「いや高須さん、いくらなんでも人事はムリです(笑)」って言われた。
現TBSテレビ 制作局制作一部長 『ガチンコ!』『学校へ行こう!』総合演出。2005年『リンカーン』を立ち上げた。『キングオブコント』の仕掛け人でもある。
TBSテレビ制作局バラエティ制作センター・エグゼクティブプロデューサー。『ウンナンの気分上々』などのディレクターを経て『オールスター感謝祭』『笑いの王者が大集結!ドリーム東西ネタ合戦』『ウンナン極限ネタバトル ザ・イロモネア』などを担当。現在は経営企画室に部署を移す。
高須
ただ『リンカーン』にはああいう若いADが必要と思ったわけ。
どっぷり芸人バラエティの番組が暫くなかったから、当時のTBSには必要だと。
「彼(藤井)は俺が喋った中では、バラエティわかってる方やから入れた方がいいと思うし、やる気もあるし、ああいう人間がTBSのバラエティやっていった方がいいんとちゃうの?」って、けっこう飯屋行く度に言ってたわけ。
そしたら「今度リンカーンに入ります」ってなって、「えええ!リンカーンに来るの!?」って逆にビックリしてもうたわ(笑)。
たぶん偶然だと思うけどね。まっ、そんな裏話はいいとして。
その頃、藤井って何やってたの?
藤井
『はなまる(マーケット)』でディレクターやってました。
高須
はなまるか、全然らしないな(笑)
藤井
バラエティに行きたいって僕もずっと言ってたんですけど、実際に異動するまでには結構かかりましたね。
高須
晴れてリンカーンに配属されて、あれだけの芸人さんたちが一堂に介する現場を見られるっていうのはすごいよね。
それが何歳だっけ?
藤井
2005年だから25ですね。
高須
はぁ~一年後。なるほどね~。それはスゴいね。
それこそ、その当時のディレクターの人たちもわからへんと思う。
芸人たちがどんな生理で生きてて、どんな動きをしようとするのかイメージできる人ってあんまりいてなかったと思う。
藤井
結構そうだったと思います。
高須
台本では成立してるから「これでお願いします」って持って行っても「この人そんな顔ないな」とか今の藤井とかだともちろん分かってるけどでもあの頃のリンカーンの会議ではそれがわかる人が少なかった。
だから成立してない企画が幾つもあったし、幾つもポシャったりしてた。
藤井
そういう現場も結構見ましたね。
高須
やろ?
藤井
そういうのを当てる事で信頼感を失うこともあるわけで。
高須
「こりゃこいつ相当分かってないな」ってなってくるよね。
藤井
そうやって先輩たちがつまずきながら進んでいくのを見て僕らが学んで、だいぶ今のTBSはよくなったと思います。
高須
そうやなぁ〜、演者との距離感とかどうやって演者との信頼関係を築き上げるかとかこれって場数というか、現場を何度経験したかにもよるしね。
藤井
だから、いい育ちはさせてもらいましたね。
「好きだったバラエティー番組は?」
高須
藤井はそれまで、どんな番組を観てたの?
学生時分とか。
藤井
作りで意識したのはやっぱり『電波少年』だと思います。
元々『元テレ(元気が出るテレビ!)』が好きだったんですけどその頃は小学生でまだ子供ですから。
1992年~2003年まで日本テレビ系列で放送。演出は『元テレ』の演出であり、テリー伊藤の弟子でもあった土屋敏男。「アポなし」「ヒッチハイク」「懸賞生活」などドキュメントバラエティの代名詞と言える番組。
1985年~1996年まで日本テレビ系列で放送されていたビートたけしの冠バラエティ。演出は本名の伊藤輝夫で仕事をしていた頃のテリー伊藤。「早朝バズーカ」「100人隊が行く」「どっきり!すべり台雪見風呂」など人気ドッキリ企画から、素人のエンペラー吉田さんを発掘、山本太郎などを生んだ「ダンス甲子園」は今でも人気ソフトとなっている。
高須
そっかぁ。
藤井
中学生ぐらいで『電波』を見て。
なんとなく、「面白そうだなぁ、テレビの裏方の人は」と。
高須
えっ、もうその時に!? 裏方を意識したの?すごいな〜
藤井
でも面白さだけで言ったらやっぱり一番は『ごっつ』ですかね。
ちょうど思春期に『元テレ』から『ごっつ』に移った感じです。
高須
中学後半ぐらい?
藤井
たぶんそれくらいですね。中学の時『かざあなダウンタウン』を夜中の二時とかまで起きて観ていたのを覚えてます。
1995年~1996年にテレビ朝日系列で放送されていたダウンタウンMCの深夜番組。「おぼえましょう」のコーナーではスッポンのさばき方「ためしましょう」のコーナーではゲイ8人とのフィーリングカップル8vs8など、若手出演者達が最も行くのが嫌だったと言う番組
高須
あんなの観たらアカンで(笑)
藤井
(笑)中学生は刺激が欲しい年頃ですから。
高須
今やったら毎週BPOにひっかかるで、あれ。
藤井
それを面白がっていたのは覚えています。
高須
藤井が好きそうやな~。
まぁね~、ダウンタウン尖っている時やからね~。
藤井
でも、僕だけじゃなく、周りも基本的にはみんなダウンタウンでしたよ。
僕らの世代は一択だったと思います。
で、特に僕は男子校的な部分が強いので、女っぽいのがないじゃないですか。
だからこう、大人の男が声出して笑えるようなやつってなるとやっぱりダウンタウンになってくるんじゃないですかね。
楽しい感じとかかっこいい感じとかには、あまり興味がなくて。
高須
俺はとんねるずも好きやったし、たけしさんも好きやったな。
もっと言えば、その頃東京のお笑いの方が好きやったかもね。
だってとんねるずのスターオーラは凄かったで。
当時の夕ニャン(『夕焼けニャンニャン』)は衝撃的やったもん『タイマンテレフォン』なんか「行け行け!石橋行け!」って当時は呼び捨てにしながらテレビにかぶりついてた。
またノリさんの自由で、飄々とした感じのボケも見たことなかったあんな芸風の人いてないもん関西には・・・。
1985年~1987年にフジテレビ系列で夕方5時から6時までの1時間の生放送。片岡鶴太郎、松本小雪、とんねずるずなどがMCをつとめる。「セーラー服を脱がさないで」でおニャン子クラブは大ブレイク。秋元康も放送作家として参加。
藤井
僕、とんねるずさんのときはまだ小学生でしたからね。
観てましたけど、「仮面ノリダー」を普通の仮面ライダー的な楽しみ方で観ていたぐらいで。
で、中2の時に「遺書」ですから。そっちはもう直撃ですよ。
『とんねるずのみなさんのおかげです』内で放送されていた仮面 ライダーのパロディーコント。木梨憲武演じる「仮面ノリダー」が石橋貴明が扮する恐怖のラッコ男などの怪人と戦う一話読み切りコメディー。 チビノリダー役を当時5歳の伊藤淳史(俳優)が演じていた。
高須
あの「遺書」って今思ったら、まだ30歳の松本がめちゃくちゃ偉そうなこと言うてるよな。
あの頃の他の先輩芸人さんから、文句出てもおかしなかったで。
第4話へつづく
ディレクター
藤井健太郎 さん
1980年生まれ、東京都出身。立教大学卒業後、2003年にTBSに入社。『リンカーン』『ひみつの嵐ちゃん!』などの人気番組のディレクターを経て、『クイズ☆タレント名鑑』『テベ・コンヒーロ』等を演出・プロデュース。現在は『水曜日のダウンタウン』の演出を務める。