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 十回目ゲスト かわら長介さん(CHOSUKE KAWARA)
名前 かわら長介 さん
1949年11月13日、岐阜県生まれ。
本名 : 長川原 繁 (ながかわはら しげる)
義務教育と、高校生活を出身地である、岐阜県益田郡萩原町で終え、18歳でサラリーマンとなる。 その二年半後、1970年、万国博で賑わう大阪を後にし、自宅にて大学を目指す浪人生となる。
翌年春、21歳。半年の浪人生活を経て、岐阜大学教育学部国語学科に合格。 大学では、「体操部」 「軽音楽部」 「落語研究会」 に席を置き、他方、「三里塚」「沖縄返還」「中教審問題」などの社会的課題に目をやりつつ、キャンパスライフを謳歌。
而して、5年後の1976年3月、大学在学のまま結婚、同時にお笑い作家を夢見て再び上阪。東大阪に仮住まいする。 来阪後、すぐに雑誌 『上方芸能 』の編集員となるとともに、大学時代の知人の世話により、人生幸朗師、青芝フック師の支援、薫胸を得て、多くの漫才師の台本を書くこととなる。現在までに書いた台本は、漫才500本、コント1000本を数える。
やがて、1980年日本中を席巻した漫才ブームが起こり、以降、テレビなどの構成の仕事が中心となり、今日に至り、お笑い作家生活30年目を迎える。(2005年現在)
やって良かった番組「突然ガバチョ」「夜はクネクネ「TV広辞苑」「4時ですよ〜だ」「ダウンタウンの…!?」「スピルバーガー「ごっつええ感じ」
「4時」のころ
高須 で、僕と長さんが一応同じ職種として再会したのは、
『4時ですよ〜だ』の時だったんですよね。
かわら でも、俺はその「4時」時代の高須っていうのは
あんまり印象に無いのよね。存在として。
高須 いや、そら当たり前ですよ。だって、ADと混じっ
ていっぱい居る下っ端の一人でしたから。
長さん達は、その頃既に「大阪の頭脳」と呼ばれた
一流の人達でしたから。
で、俺は会議室の端っこの方でずーっと
「このおっさん達、おもんないことばっかり言いやがってぇ」と
思いながら、眉を顰めてましたもん(笑)。
かわら (笑)
高須 若かったから、いろんな人達のいろんな考えを全然
認める気が無かったんですよ。
でも、そんな中で唯一、会議で長さんだけはおもろいことを
言うてるなぁ、と思ってたんです。
ところが、俺が「長さん、おもろいっ」て思うところで、
誰もひっかかったりしてこないもんやから、
余計にどんどんふてくされてしまって(笑)。
言い方は悪いですけど、その時は
「なんでこのおっさんの 言うたアホみたいな企画に、
 みんなひっかかってけぇへんねんっ!」 って毎回思ってましたね。
かわら 嫌なヤツや(笑)。
高須 いや、ホンマ嫌なヤツでしたよ。
会議室の後ろで、餃子とかつまみながら会議してる上の人達の
様子に、めっちゃくちゃ腹たってましたからね、それはもう。
「俺らの方が腹減ってるっちゅうねん!!」とかって。
俺らまったく食べられへんねん。
本番から会議まで、ずーっと 仕事してるのに食べられへんくて、
ただ会議だけに 「おつかれ〜」って来る人達が、
何で俺らの買い出しした 餃子を食べてんねん〜っ、て。
絶対お前らよりおもろいこと、考えてるし、考えられるのにっ、と
思って、そのころの僕ってずっと目つき悪かったですよ。
かわら いや、だけど虐げられた果てのその怒りというか、
思い上がりにも似た気持ちって、どこか大事やと思うよ。
若かったら余計にね。
今もうそんなヤツ全然おらんやん、若い作家には。
「既成のモノなんてくそくらえじゃ、俺は違うもの出したるっ」
ていうの、ほっとんど無いもん。
確かにかわいくないけど、でも新しいこと考えるには大事な心やから。
高須 そうですね。
かわら もちろんそれだけではあかんけどね。
それ丸出しでも絶対ええことなんかないし。
高須 うーん、難しいとこですね、そこは。
だけど、今の作家って絶対そこが欠けてるような気はしますよ。
気合いの入れ方間違って、どこ行くねんみたいな。
かわら まぁ、今や「作家先生」になった高須くんが、
今現在会議室の 後ろの方に居るような若手に気を配れているかどうかは
分からんけどねぇ(笑)。
高須 むっちゃ配ってるっちゅうねん(笑)。
武内絵美
久保田智子
杉崎美香
中野俊成
そーたに
おちまさと
鈴木おさむ
鮫肌文殊
村上卓史
都築浩
三木聡
倉本美津留
かわら長介
海老克哉
小山薫堂
大岩賞介
佐々木勝俊
堀江利幸
町山広美
高橋ナツコ
松井洋介
宮藤官九郎
樋口卓治
渡辺真也
田中直人
山名宏和
杉本達
片岡飛鳥
合田隆信
小松純也
加地倫三
タカハタ秀太
土屋敏男
高須光聖
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